世界の終りとハードボイルド・ワンダーランドの何がどう自伝的なのか考察してみる(その1:洗い出し)
先日、村上春樹さんの『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読みました。とても面白かったので、時々ネットの評判などを検索しながら読んでました。wikiをのぞいてみたら、これは自伝的な小説だとご本人が言っているとのこと。
そう聞くと何がどう自伝的なのか知りたくなります。今までも1Q84や羊をめぐる冒険、ダンス・ダンス・ダンスなどを読みましたが、あー、めっちゃ面白かったぁ!というだけで、意味を解析しようと思ったことはありませんでした。だけど今回は「自伝的」ということで、何がどう自伝的なのか知りたくなりました。
それは去年、私が『村上さんのところ』をひたすら読んで、村上さんのライフスタイルに興味を持ったせいもあると思います。そこには村上さんのライフスタイルや考え方などが断片的に書かれていました。
もしかしたらそういったリアルな村上さんの情報と照らし合わせたら何かわかるかも、ということで実践してみようと思います。
その前に、まずは小説の中に出てくる人やモノが何を象徴しているのか、私が思うところをまとめてみます。その後で、次回、何がどう自伝的なのか書いてみます。
以下便宜的に、世界の終りを「僕の世界」、ハードボイルド・ワンダーランドを「私の世界」と表記します。
これ以降はほとんどネタバレですので、これから読もうと思っている人はくれぐれも読まないことをお勧めします。
■対称となっているもの
この物語に出てくるものは、2つ以上のものが対称になっている気がします。でもそれはわかりやすい一定の法則のみで成り立っているわけではなさそうです。『洗い出し(ブレイン・ウォッシュ)』のように、老博士の言うブラックボックス(深層心理的なもの)のように、その法則はわかりません。
でももしかしてこれはこうじゃないかなと予測することはできます。それをあげていきます。言うまでもなく、私がそう予測するだけで当たっているかはわかりません。
「僕の世界」と「私の世界」
- →物語を読み解くにおいて、『洗い出し』の時の右脳と左脳のような位置づけ
- →内(内的世界、深層心理、心や頭の中)と外(外的世界、表層世界、社会)
「僕の世界」内の森と街
- →心のある自由な世界と、心のないルールが決められた世界、管理された世界
- →村上さん的生き方(組織などに属さない生き方)と、一般的な生き方(組織に属す生き方)
僕と「影」
- →表裏の関係。人間の主体と影?
南のたまりの地下と、地下鉄の地下
これは僕の世界と私の世界を通じている通路という気がします。だとすれば、「私」の脳内における第一回路と第三回路を繋ぐポイントという感じでしょうか。
ここまではわりと共感してくれる人も多いのではないかと思います。
これ以降はちょっとこじつけかもしれないものをあげていきます。
獣とペーパークリップ
- シナプス?電気信号?『第三の思考システム』を確立させるために使った手段
無数の金色の獣は、銀色のペーパークリップと何か通じてそうな気がします。脳のシナプスとか電気信号とか、老博士が『第三の思考システム』を確立させるために使った手段という感じでしょうか。やみくろの世界でも、老博士はペーパークリップで『私』を誘導したりしています。
発電所管理人と門番、そして僕の3人だけが心を残している
- 発電所の管理人→知的で良い人だけど、弱くかわいそうな人(楽器コレクター)
- 門番→強いけど、野蛮で野性的(刃物コレクター)
この両者は、主体である主人公『僕』の別の側面かも。なんとなく、モノを集めたり人間的なものを感じさせる人たちという気がします。
発電所の管理人も門番も、街(心を無くした人たちが住む場所)の人間ではありません。たしか登場人物の誰かが、門番は雇われだ(街の人間じゃない)と言っていました。ということで門番も、発電所の管理人と同じく心を消しきれなかった人間ではないかという気がします。この世界で心を無くしきれてない男は、僕を含んでこの3人という気がします。(図書館の女の子や森の人を除いて)
「僕の世界」の発電所管理人と門番 ⇔ 「私の世界」のちびと大男
- 発電所の管理人→知的で善良だけど弱い
- ちび→知的だけど狡猾
- 門番→野蛮で強い
- 大男→野蛮だけど素直
どちらの世界でも、それぞれ中途半端でとても人間的な人たちではないでしょうか。知的な人間の表裏と、野性的な人間の表裏を、それぞれ、発電所管理人、ちび、門番、大男といった象徴をを用いて相互の関係を表している気がします。
大佐と老博士
- 大佐→組織人、縦社会の象徴。組織の中で、心を無くしながら生き抜く人の良き象徴
- 老博士→自由人、わがままの象徴。フリーで、心のままに生き抜く人の良き象徴
どちらもその生き方を極めた人ということで、好意的な意味を感じる気がします。
森に住む人とやみくろ
- 森に住む人→心の有用な面だけ残した人
- やみくろ→森に住む人が捨てた心の側面を担ってしまった存在
森に住む人の数だけ、やみくろも存在するのではないかという気がします。個人的にはここがかなり興味深いです。心の有用な面(的確な表現が思いつきませんが)と、それ以外の面は表裏一体であるはずなのに、心の有用な部分のみを残して生きている森の人(←これは私の仮説で、物語ではその実体は不明のままです)がいるということは、心のそれ以外の部分だけ担わされた存在もいる気がします。そうであればやみくろの憎悪の理由も説明できそうです。ということは、壁の外を目指した「影」はどうなるのでしょう?
森と、壁の外の世界
- 森→ほんの近く、意外な場所にある理想の場所。内なる平和。心の平和。
- 壁の外→ここではないどこか。外に求める野望。社会的成功。
壁の中で、さらに森に住む人たちというのは、とても特別なバランス感覚を持つ人たちの世界ではないかなという気がします。注意深く物ごとを洞察できる人だけが行けるような。一方、壁の外、ここではないどこかに希望を抱くというのは、わりとありがちで単純な発想のように思います。
「僕の世界」の街の人と、「私の世界」の人と、森で生きる人
- 「僕の世界」の街の人→僧侶のような無心の生き方
- 「私の世界」の人→ごく普通の生き方(迷ったり、流されたり、中途半端)
- 森で生きる人→そのどちらでもない(心をしっかり持ちながら生きること?)
「僕の世界」の街の人は、心を無くしたおかげで平穏に暮らしています。それはなんとなく、物欲や俗世的なものを捨てた仏教の僧侶のような生き方のような気もします。それと同時に、大佐のように縦社会の組織の中で心を無くしてきた組織人のようなイメージもあります。だけど忙しいサラリーマンのように、中途半端に心を無くしているのではなく、徹底的に心を無くしている象徴という気がします。
一方「私の世界」の人はごく普通の人間です。たとえば広場の母娘とか(その他全ての人間も)。ビール缶と寝転がる『私』にさげすみの眼差しを送るだけの心があります。レンタカーショップの女の子のように、気の利いたことを言えるだけの心を持っていたりもします。そして、私たちごく普通の人間は中途半端な部分もあります。迷ったり、流されたり。その点では徹底的に心を無くしている「僕の世界」の街の人とは対照的です。忙しさの中で中途半端に心を無くしている現代人とか、そんな感じがします。(あ、中途半端なところが門番や発電所の管理人と通じてる気がする)
一般に、僧侶のような生き方が高尚で、普通の生き方は欲深く俗物的という捉え方をすることがあります。でもこの物語はそのどちらでもない生き方(つまり森で生きること、心をしっかり持ちながら生きること)を示しているようです。
「僕の世界」の1人の女性と、「私の世界」の3人(以上)の女性
- 「僕の世界」の1人の女性(図書館の女の子)→老博士が言う失ったもの(つまり主人公にとって唯一の女性)
- 「私の世界」の3人(以上)の女性→太った女の子、(「私の世界」の)図書館の女の子、離婚した前妻、(その他、主人公が関わった女性)は、唯一の女性を得られなかったことの象徴。「僕の世界」の図書館の女の子(の心?)が偏在、分散している
「僕の世界」では図書館の女の子だけが唯一の女性だけど、「私の世界」には、太った女の子、図書館の女の子、離婚した前妻、その他いろいろ女性が出てきます。最初、「僕の世界」の図書館の女の子に相当するのは、太った女の子か(私の世界の)図書館の女の子、どっちだろうと思ってましたが、これはどっちというわけではなさそうです。なぜなら、老博士がその世界(僕の世界)であなたは失ったものを手にすることができると言っているからです。たぶん失ったもの、得ることができなかったものとは、主人公にとっての唯一の女性や、しっかりした心を持つことではないかなと思います。
「僕の世界」の3人の男性と、「私の世界」の3人の女性
「私の世界」に3人の主要な女性が登場する代わりに、「僕の世界」には3人の「心を失ってないかもしれない」男性が出てきます(僕、発電所管理人、門番。※影は除く)。この3対3が何か対応してるのかしてないのか、よくわかりません。
■その他
- 鳥→ここではないどこかに希望を抱かせる、思わせぶりで人を惑わせる象徴。一般的にも自由の象徴
- 手風琴→風、(命や心を)吹き込む?
- 風→手風琴も、それをくれた管理人がいる発電所も、風でつながっている。風は何の象徴?(風の歌を聴けでも読んでみよう)
- 影→狡猾さ。(影はやみくろになる?)
- 古い夢と頭骨→偏在する人間の意識(ユングの集合的無意識的なもの)とその入れ物(人間、個体)
- 夢読み→たとえばリアル村上さんが文章を書いたり読んだりするような行為
- エレベーター→別世界への入り口?もしかしたら、第二や第三の意識の影響の兆候だったのかも。
- 老人たちの掘る穴→その仕組み(世界)を維持するためだけの労力。新たな価値を何も生み出さない労力。儀式的なもの?
- 壁の外と中の間に門番がいて、街と森の間に発電所管理人がいること→それぞれ区域の境界
また追記するかも知れないけど、今思いついたのはこんな感じです。もっとうまく整理できればいいけど。
こういう観念的なものっていくらでもこじつけようがあるので、もしかしたら全てこじつけの域を出ないものかもしれません(笑)。
ということで次回、その2のほうで、これらを使って何がどう自伝的なのか読んでみたいと思います。
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