毎日楽園化計画

時々湧き上がる思考の整理

エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンスはただハチャメチャのようで実はある思想体系に基づいて描かれているかもしれない1(ネタバレあり)

1年ほど前にYouTubeでトレイラーを観て気になっていた(けどすっかり忘れていた)『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』、通称エブエブを先日観てきました。

訳すと「すべてが、すべての場所が、一度に」みたいな意味だと思うんだけど、もうタイトルの時点で気になった。なぜなら私がスピオタだから。

 

スピ界ではよく「今ここ」という言葉が使われる。

「今ここにすべてがある」とか、「今ここに意識を置く」という意味で使われたりする。ともかく今に意識を集中するという意味で使われる言い回しだ。

マルチバースを扱っている点も気になった。この地球の社会だけじゃなく、他の次元、他の宇宙を想定するのがスピリチュアルの世界だから。

 

実際観てみるとやはりスピリチュアル要素を随所に見つけることができる映画だった。主人公がADHDという設定なのは公にされているようだけど、スピの定説を盛り込んだという言及はどこにもない。なのであくまでも「たぶんそう」の範疇でしかないのだけど、タイトルやマルチバースの時点でスピオタとしては結び付けずにはいられない。

ただ、日本人は「スピリチュアル」と呼んでちょっと特別なものとして扱っているけど、もしかしたら欧米の人にとってはもっと当たり前で日常の思想体系に組み込まれたものなのかもしれない。というのも、日本でスピと呼んでるものの70%くらい(あくまでも私の肌感覚だけど)は、アメリカのニューソートニューエイジがベースになっている気がする。そしてそのニューソートキリスト教の流れを汲んでいる。

今回この映画が7冠獲ったらしいけど、こんな意味不明な映画がそれだけ支持されるのは欧米の人の中にそのようなバックグラウンドがあるせいなのかもしれない(そういえばインターステラーも一見SFに見えてそっち寄りの映画だったように思う)。

 

ということで、このあたりに馴染みのない一般の日本人にはただカオスで下品でおもしろい映画と映るかも知れないけど、ちょっとそのへんになぞらえて深読みするとより面白いのではないかと思うので、覚えてる限り、スピの定説と重なっている部分を挙げてみる。ただ、まだ一回観たところなので、ストーリーや固有名詞などは追えてなくて記憶違いもあると思うけど以下読んでもらえると嬉しい。以下、完全にネタバレなのでご注意ください。

 

タイトル『Everything Everywhere All At Once』

普通私たちは、過去は過去、未来は未来にあると思って生活している。しかし精神世界(スピ)ではよく、「過去も未来も、この世界(タイムライン)以外の並行世界も、すべてが同時に存在している」と言う。

映画のフィルムやパラパラ漫画のように、いくつものコマを連続して再生すると繋がっているように見えるけど、本当は毎瞬ごとの静止画の集積なわけで、時間もそれと同じと解釈する。つまり時間に連続性とか一貫性があるように見えているけど、実はただバラバラのコマをつなぎ合わせているだけだと。

そしてこの自分のタイムライン(この宇宙、パラレル)だけでなく、他のタイムラインも同じように、同時に存在する。過去現在未来、そして別のあらゆる一連の過去現在未来も、すべてバラバラのコマとして、広いテーブルの上に同時に存在している……というイメージだ。今回の主人公エヴリンで言えば、エヴリンA、エヴリンB、エヴリンC……と、無限のバージョンのエヴリンのパラパラ漫画が存在し、そのコマがすべて同時に、同じテーブルの上に並んでいるイメージだ。このへんはなかなか掴みづらいけど、バシャールなどが上手く図などを使って説明してくれている。

 

映画では、コインランドリーを経営するバージョンのタイムライン(コマの集積)と、大女優となっているバージョンのタイムライン、この2つにフォーカスが当てられているけれど、それ以外にも、肉を焼いたり、カンフー修行者だったり、想像しうる限りのエヴリンが同時に存在している。

どのタイムラインも、どの瞬間も、すべてが同時に存在している、それがこの映画の描くところのマルチバースなのではないかと思う。

 

ここで描かれるのは、物理的な宇宙(universe)ではなく、観念的な宇宙(cosmos)なのかなとも思うけど、それを言い出すと脱線するし面白くないので割愛することにして、ともかく過去現在未来のすべての瞬間、すべてのバージョンの世界が同時に存在している、という見方、解釈がベースになっている映画なのかなと思う。

 

『変なことをすればするほど、他の宇宙に飛びやすい』

リップクリームを食べたり、天敵の監査官に「愛してる」と言ったり、ともかく何か変なことをすると別の宇宙にジャンプしやすいという設定になっている。これはただ面白いからだけじゃなく、以下のような定説に基づいているのかもしれない。

 

スピ界では、考え方や感情など、その人の内面がその人の現実を作ると考える。大学に行って就職して結婚して子どもを作るのが普通の人生だと思っている人はその観念体系の中で自分の人生を形成するし、そうじゃない人はもっとその枠から逸脱した人生を経験する。当たり前と言えば当たり前の話だけど、ともかく観念や観念体系がそのままその人の身の回りの現実に反映される。

地球の社会で常識とされている範疇や、科学で証明されている領域や価値観だけを採用して生きていると、その範囲から外に出ることができない。つまりこの宇宙(地球社会)に自分を留めることになる。

よってこの宇宙の外に出るには、それを打ち破ること、つまり「変なこと」が必要になる。この地球社会での常識や科学の枠を打ち破る、最も手っ取り早く手当り次第に試せることが「変なこと」(あるいは「変な観念」)ということになる。

実際他の宇宙では、指がソーセージだったり、生命としての肉体は持てなかったけどエヴリンやジョイの意識を宿した岩の世界があったり、2Dの世界さえある。別の宇宙はこの宇宙とは違う法則や常識や観念体系をベースに営まれている。どの宇宙に飛ぶかはともかく、この宇宙を出るにはまず、この宇宙の形成する観念体系の外に出る必要がある。

 

心を込めて「愛してる」と無我

天敵の監査官に「愛してる」と言えば、それがジャンプ台になって別の宇宙に飛べるというシーンがある。エヴリンは戸惑いながら監査官のディアドラに「愛してる」と言ってみるものの失敗する。しかしディアドラの一撃を受ける直前、間一髪で成功する。

他の映画でも、そのような切羽詰まった状況で成功する場面はよくある。偶然だとか、その状況で成功させることができるからドラマになるとか、いろいろ解釈はあると思うが、ゾーンに入ることができたから成功したという解釈もありえるかもしれない。

スピリチュアルではしばしば、小我を消せば大我や真我につながることができると言われる。小我とはこの地球に肉体を持って存在している自己(エゴ)のことで、大我や真我とは、この地球よりももっと高い次元(精神性の高い世界)の自分ということになる。スピリチュアルや、自分が学生時代に学んでいた仏教においても、「自分」という言葉が使われるとき、この両者のどちらなのかを文脈から読み分ける必要がある。

それで肝心の小我の消し方なのだけど、いろいろある。ひとつはリラックスして悩み事や考え事を停止できている状態。上手くこの状態になれれば、高い方の自分とつながることができる。お風呂や散歩や皿洗いのような単純作業のときに何かをひらめいたりするあれのことだ。

瞑想も、主にこのようなことを目的としていると思う。リラックスよりも再現性やつながり度の高さを追求したのが瞑想なのかもしれない。

もうひとつの方法(というか状況)が、このエヴリンのように究極的に追い詰められた状況だ。このなりふりかまってられない状況で、なおかつ恐怖さえも消えたとき、高い自分とつながる。火事場のクソ力という表現もあるし、スポーツの場面などで言われるゾーンもこの一種かもしれない。

つまりエヴリンは、ディアドラの一撃を受ける寸前の究極的に追い詰められた状況で高次元の自分と繋がった。そしてその高次元は本来の世界であり、その本来の世界は愛で充満していると言うのである。なので、高次元と繋がったエヴリンは、本心で「愛している」と言うことができたため、他の宇宙にジャンプできたということかもしれない。

 

別の宇宙の自分からスキルを引っ張ってくる

映画では、他の宇宙の自分にアクセスすることで、その自分(エヴリンなら他の宇宙のエヴリン)のスキルをこっちの自分にもコピーできることになっている。たとえば小指で腕立て伏せをしているカンフーマスターのエヴリンから、ものすごい強い小指のスキルをもらってくるとか。

これはスピ界でもとりわけ人気の「引き寄せの法則」に通じる。たとえばパートナーが欲しいなら、そのパートナーと出会って喜びに満ち溢れた未来の自分を想像し、その喜びを先に感じ、パートナーと出会った(空想上の)自分と同調することで、実際に「パートナーを得た自分」という状況を引き寄せることが可能だと考える。もっとシンプルなやつだとポジティブシンキングなどもそうで、自分の内側が喜びや安心に満ちていたら、外側にもその感情(周波数と言ったりもする)に見合う現実が創造されると考える。

最初の項目でマルチバースをパラパラ漫画のコマにたとえて説明したけれど、未来であっても別のパラレルの一場面であっても、それぞれバラバラのコマに過ぎない。引き寄せでは理想の自分とか未来の自分に意識上でアクセスして、そのエネルギーや周波数をこっちのコマに引っ張ってくるけれど、この映画では別の宇宙(別の平行世界)の自分にアクセスすることで、こっちの自分にもそのスキルを実現するという理屈なのだと思う。

実際にはエゴが邪魔をしていたり、地球の特殊な複雑さのためになかなか思い通りに引き寄せられないことが多いけれど、映画の中では引き寄せの原理をシンプルに描いているように思える。

 

なぜADHDのエヴリンは「外れやすい」か

さて主人公のエヴリンはADHDだという裏設定があるらしく、検索すると監督のひとりダニエル・クワンのそのような発言も簡単に見つけることができる。映画の中では、他の宇宙のエヴリンは何かしらの成功を成功を収めたり優秀な人物だが、この宇宙でコインランドリーを経営しているエヴリンだけは、中途半端で何かを極めることができていないキャラクターなのだと言う。しかしアルファバースのウェイモンド曰く、そんな彼女こそが、すべてのエヴリンの中で特別なのだと言う。

自分も発達障害ASDのほうの診断はもらっているのだけど、たぶんADHDも持っているのではないかと思っていて、やはり興味があちこちに移ったり、目の前のことに気を取られてついつい本来やろうと思っていたことから脱線したりする。たぶんこのような特性ゆえ、エヴリンも一つの道を極めることができなかったのだろうけど、それは「バースジャンプ」においてはアドバンテージとなりうる。

ひとつの道を極めるということは、ひとつの道を深めるということだ。観念や方法論を固定化し、自分の「型」を形成してしまう。それはこの宇宙ならこの宇宙に深く根ざしてしまうことだと思う。つまりこっちの宇宙の型にはまり、こっちの宇宙に深く根ざしてしまえばしまうほど、型を外したり別の宇宙にジャンプすることが難しくなる。たとえば脚本家としてキャリアを築いた人がそのキャリアや名声をすべて捨てて他の職業に転職するには勇気が必要なように、自分の成功がある宇宙から別の宇宙にジャンプするのは難しいしあまり意味を感じられない。まだ何も手にしていないからこそ身軽にジャンプできる。「バースジャンプ」はこのようなことの比喩なのかなとも思う。

スピリチュアル界では、地球的な観念が弱い人のことを「スターシード」と呼んだりする。地球の常識やルールに染まっていない人、染まりにくい魂傾向の人と言える。スピの先生の中には「スターシード=発達障害」と言い切ってる人もいる。このような人たちが地球で生きづらいのは障害ではなく魂の傾向が「非地球的」だからという解釈だ。

このような解釈からも、エヴリンは宇宙に飛びやすい魂と言えるのかもしれない。

 

ということで、まだまだあるのだけど、かなり長くなりそうなのでいったんこれで公開してしまおう。次は「愛と調和」や「人生への肯定」などについて書く。だけど一番惹かれるのは、スピ界ではあまり言及されることのない闇側、この映画ではジョブ・トゥパキやベーグルについてだ。

トレイラーを見るかぎりはミシェル・ヨーや夫役のキー・ホイ・クァン、監査官のジェイミー・リー・カーティスが魅力的でオスカーを獲ったのも彼らだったけど、実は一番魅力的なキャラクターはステファニー・スーのジョブ・トゥパキだったかもしれない。ジョブ・トゥパキについて考えるとき大昔の踊る大捜査線の予告に出てくる歯科矯正の小泉今日子を思い出すし、この映画のなんとも言えないカオス感やエモさについて思うときは初代うる星やつらの劇場版の空気感が重なるような気もする。

ということで、次回闇やカオスについて考察するのが楽しみ。

 

マルチバースや「今ここ」については、この本に載っている図が参考になるかも。