毎日楽園化計画

時々湧き上がる思考の整理

『村上さん』の中に見つけた仏教的なものを拾っていく(4/3追記)

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フリーランサーとしての村上さんに何か得るものはないかとの思いで、この『村上さんのところ』を追い続けて早一ヶ月強。

生活習慣や自己管理、組織に属さず働くコツなどを拾って参考にさせてもらうつもりだったのに、気がつけば深みにはまっていました。特に村上さんの基本的な物事の捉え方がとても興味深く、ズルズルとそっちへはまってしまいました。根本的なものほどハマると深みにハマるので、ほどほどにしたいんですが。

自分はというと、昔仏教やインド哲学を勉強していた頃がありました。元々そういった物事の捉え方や法則性などに興味がある人間なので、ついついそういった視点で読んでしまいます。そしてなまじ知識があるために、つい自分の知ってることと照らし合わせたり、共通性を見つけたりしてしまいます。

仏教というとキリスト教などと同じ宗教と捉えられがちなんですが、実は哲学や精神科学的な側面のほうが大きいんじゃないかと個人的には思っています。たしかダライ・ラマもそんなことを言っていました。日本での、宗教としての仏教にはほとんど興味はありませんが、そういったものを除いた本質的な仏教はとてもおもしろいです。

このようなタイトルをつけましたが、村上さんがすなわち仏教的な人ということではありません(私の引用解析する姿勢に関して言えばまさに仏弟子的ですが)。ただ、自分が知ってるA(村上さん)とB(仏教)の共通性を見つけたってだけの話です。なので、A(村上さん)はCとも似てるかもしれないし、Dとも似てるかもしれないし、ABCD全部に共通性があるかも知れない。でも私が知ってるのはAとBの共通性だけだ、ということです。

たとえばここでは、海外の学生に、村上作品が民話(神話)と似ていると指摘されていました。

“Kafka on the Shore” and folk tales - 村上さんのところ/村上春樹 期間限定公式サイト

翻訳版の「海辺のカフカ」を研究していたら民話との共通点を見つけてしまったけど、自分は日本語がわからないから、原語ではどうなんだろう?みたいな相談でした。

こんなやりとりもありました。

作品を富士山にたとえれば - 村上さんのところ/村上春樹 期間限定公式サイト

村上作品の解説本を読んで、いかに自分が読解できていないかを知ってがっかりした、みたいな相談ですが、それに対して村上さんは、こんな回答をしています。

作品を富士山にたとえれば、一つの角度からそれを捉えた写真のようなものです。そこから全体像は浮かび上がってはきません。

 

私が今からやろうとしていることも、これらのやりとりにあることと同じだと思います。

村上さんの考え方や村上作品に、私は仏教との共通点を見つけるけど、彼女は民話との共通点を見つける。でもそれは部分的な見方にすぎない、ということです。

そして、先の民話との共通点について、村上さんはこう答えています。

When we tell our story we often go down to that reservoir and draw some water from it. Maybe our reservoirs are partially mutual.
This is my theory. What do you think?

私はあんまり英語が得意ではありませんがザックリ意訳すると、人間の心の深いところには、物語の源になるような「貯水槽」があって、それは自分だけじゃなく、他ともつながったり、行き来したりしていると。

この回答だけではわかりづらいけど、他の回答も読んでいるとどうやら個人の精神の奥の奥のほうには、人間全てに共通したり通じたりする何かがある、と考えられているようです。

これに関しては、このやりとりが参考になりそうです。

河合隼雄先生と話して感じたこと - 村上さんのところ/村上春樹 期間限定公式サイト

ここでは質問者の方が、村上作品とユングとの共通性を指摘しています。それに対し村上さんは、ユングの著作物は読まないけど共通性は否定しない、といった回答をされています。

私は心理学やユングについてはほとんど知らないけど、ユングが提唱したものの中に「集合的無意識」というものがあることを知りました。

私もよく理解できてませんが、例えば笑顔や怒りなど、民族を問わず共通するものがこの表層の世界にもあるけど、そういった共通基盤が、人間の心の深層にもある、ってことなんじゃないかと思います。

そしてこれに似た概念が仏教にもありました。「阿頼耶識」というやつです。

たぶんまったくイコールではないけど、村上さんの言ってることと、ユングの提唱した概念、仏教の阿頼耶識には共通した部分があると思います。

それぞれ場所も時代も全く違うのに、これら3つには共通した部分がある、このこと自体が、その「底で通じている」ことの証明のように思えます。

ここにもひとつありました。

村上さんは神話を書いているんですか? - 村上さんのところ/村上春樹 期間限定公式サイト

(ちなみに、大乗仏教では阿頼耶識(八識)までしか言及せず、私もここまでしか習いませんでしたが、wikiによると密教の世界ではもっといろいろ(九識とか十識とか)あるようです。もしかしたらそちらとも通じてるかなぁとも思うのですが、このへんは素人がこれ以上掘り下げないほうがいい世界のような気がします。)

 

では、前置きが長くなりましたが具体例を部分的に拾っていきます。

 

1.三角測量と縁起観

生きる意味って、必要ですか? - 村上さんのところ/村上春樹 期間限定公式サイト

ここに出てくる「三角測量」。最初に読んだときまったくわかりませんでした。というか、まだそんなに深く読もうと思ってなかったので、軽くすかすような回答だと思ってました。三角測量にヤクルトのローテーション、私にわからないことだらけですし。しかし後になって気になって「三角測量」をググってみて気づきました。これは仏教の縁起観と似てると。

上のやりとりだけじゃピンときません。ところがその後、この「三角測量」の例話にあたるのではないかというやりとりが別のところに出てきました。

地球もすきです、自分もすきです - 村上さんのところ/村上春樹 期間限定公式サイト

つまり、自分の存在意義だけを凝視してても何もわからない。だけど、そこに自分が大好きなものをひとつ置くことで、それと自分との関係性を見つめることで、自分の存在意義がわかる、というか生まれると。たぶんそういうことなんじゃないかと思います。

ぐぬぬやるな22歳、といったところです。

そしてここにもちゃんと「関係性」が出てきます。

どうしてこのような結論に至ったか? - 村上さんのところ/村上春樹 期間限定公式サイト

要するに、意味には実態なんてないんです。そこには関係性みたいなものがあるだけです。その関係性はあくまで相対的なものであって、あなたがちょっと立ち位置を変えるだけで変化するものです。決して絶対的なものではありません。

これまさに仏教の縁起観に通じます、とほぼ断言していいんじゃないかと思います。

「縁起観」でググると、単純に因果論つまり原因と結果の法則のような説明も多いですが、そういう直線的な繋がりだけじゃなく、もっと広がりのある関係性のことじゃないかなと(昔学んだ記憶をたどると)そう思います。原因と結果だと点と点を結ぶ線でしかありませんが、三点あると面になります(あともう一点加えると「体」になりますが)。

そして、そのそれぞれの点は固定されていないので、ここで問われている「意味」もつねに変動しているということです。

「関係性」とか「相対的」などの言葉が出てきますが、これもまさに縁起的というか仏教的な言葉です。

「面」や「体」の広がりに関してはあくまでも私の縁起観への解釈で、村上さんがそう考えていたわけではないと思います。村上さんは単にその「変動」を示すために「三角測量」を引用したのだと思うのですが、3点はその変動を示すのに必要最低限の数です。「それでいきましょう」と言うだけのことはあるなと、今になって理解しました。

 

 2.タマネギとナーガセーナの無我説

若いころは、自分って何?みたいなことを悩むのが好きだったりします。私もそうでした。なのでこの仏教の「無我」という概念にものすごく興味がありました。

『村上さん』にも、個人の実態に関するやりとりがいくつかありました。

本当の俺のこともしらないくせに!? - 村上さんのところ/村上春樹 期間限定公式サイト

海外の若者もやはり、同じようなことに興味があるようです。

What am 'I'? - 村上さんのところ/村上春樹 期間限定公式サイト

こういった問に対して、村上さんは個人存在をタマネギに喩えたり、機能の集合体だと言ったりして、自分の考えを述べられています。

で、これと同じような譬喩が『ミリンダ王の問い』という仏典にも出てきます。

簡単に意訳すれば以下のような譬喩です。

車というのは、タイヤとかシートとかエンジンとかブレーキとかボディとか、そういった機能が集合して車というひとつの存在を作っている、だけど、それらの部品をバラしたとき、そこに何が残るかというと、何も残らないわけです。バラしたときに、車の核みたいなものがそこに落ちてるかというと、そうではない。何もないと。

この『ミリンダ王の問い』は、仏教の僧侶と、ギリシャの王様の対話なのですが、このように西洋と対比させることで、仏教的あるいは東洋的なものの捉え方が浮かび上がる、とてもおもしろい教典だと思います。といっても、当時のはたちそこそこの自分には読みきれず、理解しきれていない部分が大半で、今もそのままになっていますが、それでもこのギリシャの王様、ミリンダ王と同じような気づきを、今の私たちにも与えてくれるものではないかなと思います。

しかし仏典に限らないと思いますが、昔の哲学や思想などは対話形式で残されているものが多いようです。しかもそれをまとめるのは本人ではなく弟子であったり、解釈するのはさらに後世の弟子であったり・・・。この対話というのは、こういう話題に向いた形式なのかも知れません。

 

3.「ほどほど」と中道

ほかにもいろいろ共通性をあげるときりがありません。たとえばこういった、「ほどほど」な感覚など。

できるだけ肉を食べない食生活 - 村上さんのところ/村上春樹 期間限定公式サイト

仏教には「中道」って言葉がありますが、そういったところにも通じるような気がします。ストイックさとほどほどさがうまく共存していると言いましょうか・・・。

 

以上、ここまでは私が昔習った大乗仏教的なところでカバーできるんですが、ところどころ、それではカバーしきれない部分もあります。たとえば・・・、

「異界」へのアクセス - 村上さんのところ/村上春樹 期間限定公式サイト

これとこれも?

Sex connects us with our unconsciousness - 村上さんのところ/村上春樹 期間限定公式サイト

(作家として、セックスは無意識へのドアだと思っている、というような回答がされています。訳が間違ってたらすみません)

性描写のシーンでつらくなります - 村上さんのところ/村上春樹 期間限定公式サイト

原始仏教や大乗仏教など、私が知っている範囲ではこういったことはあえて明確にしないようです。体感でしか知ることのできない世界だから、その部分だけ抽出し言葉で厳密に説明してしまうとかえって誤解をまねくというのもあるでしょうし、誤った使い方をされると危険(オウムのように)という理由もあるんじゃないかなと思います(密教小乗仏教のほうにはあるかも知れませんが)。

しかしこういった類いのこともオカルト的な胡散臭さと感じさせず、なんとなくそんなのもありえるかもと思わせる言葉のバランスは、やっぱりプロだなぁと思います。

 

そういえば、こんな回答もありました。

仏教の「できること」「やるべきこと」 - 村上さんのところ/村上春樹 期間限定公式サイト

うちの父親の家系は僧侶だったので、仏教はいつも僕の身の回りにありました。僕はとくに信仰を持ちませんが、そういう空気は今でも僕に自然に染みついてしまっているのかなと感じることはあります。教義とはほとんど関係のないところで。

「教義とはほとんど関係ないところ」がどういう意味かわかりませんが、観念的なものが染みついている、ということもありえるかもしれません。

 

(4/3追記)

これを機に『ミリンダ王の問い』を少し読み返して面白いことを思い出してしまいました。

「2.タマネギとナーガセーナの無我説」のところで、車のパーツをバラしてみたらそこには何も残らないという話を出しましたが、じゃあいったい何かそのパーツを正しく集合させて車という存在を成り立たせているか、という疑問にぶち当たります。

これを『ミリンダ王の問い』では、「形成力」という言葉を用いて説明しています。

ミリンダ王はナーガセーナに対し、「今はまだ存在してないけど、あらたに生起するような<形成力>があるか」というようなことを問うのですが、ナーガセーナは「じゃあ、あなた他が今いるこの家はどうなんだ?存在しなかったのに生まれたのか?」といったことを逆質問し、ミリンダ王にこう言わせます。

『尊者よ、現に存在することなくして生じたものは、この世においてはなに一つとしてありません。現に存在しつつあるもののみが生じたのです。尊者よ、これらの材木は実に林の中にあったのです。この粘土は地中にあったのです。女子と男子とのそれに相応した労働によって、この家がこのように生じたのです』(P147)

それにナーガセーナもこう応えます。

『大王よ、それと同様に、現に存在することなくして<あらたに>生起する形成力なるものはありません。形成力は現に存在しつつ生起するのです』(P147)

ここに出てくる「形成力」って言葉、正直よくわからないです。注釈を見ると、アートマンインド哲学の用語で「自我」のようなもの)を否定するために使われているといったことが書いてあります(仏教の大きなテーマは無我ですから)。漢訳では「諸行」となるらしいです。

この時点では、自我(先のたとえだと車の核にあたるもの)を否定するためにあくまでも方便として「形成力(諸行)」って言葉を使っただけ、みたいなことが注釈に書いてあるんですが、後の一部の学派が、普遍的に実在するものとして解釈しちゃって、大乗仏教でもこのエントリーの冒頭に出た「阿頼耶識(アーラヤ識)」を用いて説明せざるを得なくなっちゃった、みたいに書いてます。仏教などの内的世界では「有」と「無」の概念が掴みづらいのでとてもわかりにくいですね。

例えば去年、STAP細胞の騒動がありました。これをミリンダ王の家の譬喩になぞらえると、STAP細胞の素材(アイデア)はバカンティーさんや小保方さんらの中に有った。マウスなど実際的な素材もあった。だけど、譬喩の中に出てくるように「それに相応した労働」というものが欠けていたのではないかというふうに思えます。iPS細胞の場合は言わずもがな、山中教授ほか過去からのたくさんの科学者の「相応した労働」があったから私たちが生活する表象の世界でも存在せしむることができたということなんだろうと思います。

(考えようによってはSTAP細胞も、こっちの世界に引っ張りだす力(相応した労働)が足りなかっただけで、iPS細胞と同じように「有る(潜在する)」という気がしなくもないですが、ただこちらの世界、特に科学の理論の厳密な世界ではそれは「存在しない」ということになりますよね)

 

だいぶ脱線しましたが、『村上さん』の小説の書き方への回答の中に、この「形成力」を感じることがときどきあります。たとえば、

What happens when you grow up? - 村上さんのところ/村上春樹 期間限定公式サイト

What I am doing when I am writing stories and novels is to see the landscape of ANOTHER WORLD and describe it. You may call it IMAGINATION if you want. But I'd rather call it an ACCURATE DESCRIPTION of things, for I am actually seeing it before my eyes, not imagining it.

ちょっと英語に自信ありませんが、どうやら村上さんが物語を書く作業というのは、作ったり生み出すというよりも、目の前にある景色を正確に描写するのに近い、といったことをおっしゃってます。ちょっと無理やりかもしれませんが、ミリンダ王がナーガセーナに言わされた「現に存在しつつあるもののみが生じた」に該当するかも知れません。

これだけだとちょっと根拠に欠けるような気もしますが、ところどころでこういう解釈が可能なようなことを言ってた気がするのですが、また思い出したら追記します。

ということで、形成力。やっぱりよくわからないけど、なんらかの関係性がうまく成り立ったときに、潜在的に存在するものをこっちの世界でも実在させるもの、といった感じでしょうか?漢訳でも「諸行」ですし、この「諸行」の意味をさらに調べると「現象」ということになるようです。

 

ちなみに私は村上さんの長編を数本読んだ程度の読者で(ダンス、羊、カフカ1Q84等)、しかも内容はきれいさっぱり忘れています(ただすごくおもしろかったことだけは覚えています)。なのでここに書いたものは『村上さんのところ』の回答から引っぱってきたものだけを元にしています。作品の中身の分析ではありません。

こういった切りのない話はこれで終わりにして、次こそはフリーランサーやつくる人のための実務的な「村上さん」をまとめたいんですが、この「村上さん」読んでると、河合隼雄さんや、その河合さんが研究していたユングなどにも興味を持ってしまいます。しかもそこでまた仏教との共通性を見つけてしまったりします。やはり内面の世界はどこまでも続いてるようです。