毎日楽園化計画

時々湧き上がる思考の整理

おにぎりと社畜をめぐる戦い

数日前の甲子園女子マネージャーのおにぎり騒動。当初はただ世の親御さんたちの「学業を優先して欲しい」という願いが発端だと思っていましたが、しばらく眺めているとそうではないことがわかりました。ツイッターブコメを眺めていていろいろ発見したのでちょっと思ったことをまとめておこうと思います。

 

大人たちがおにぎりに映し出したいくつかのこと

たぶんその女子マネージャーは、自分が熱中できることをだたやっていただけなのだろうと思う。しかし大人たちはそれぞれ「おにぎり」にいろんな意味づけをした。

  • 男尊女卑の象徴
  • 組織における個人の犠牲/組織からの搾取の象徴

1つ目は言うまでもなくジェンダーの問題。冒頭にも書いたとおり、最初は学業を犠牲にしていることへの批判と思われたけど、その影にこういった批判も隠れていた。ただ2つ目に比べるとこちらはわりと見つけやすかった。 


しばらくして、この騒動で批判に回ってる人の中には2つ目の理由で批判している人もいることがわかった。おにぎりを握る彼女をブラック企業における社畜になぞらえた意見がちらほらあった。

これ以外にもあったかも知れないけど今回はスルーする。

 

ジェンダー的な問題はわりとよくある批判だけど、2つ目の問題については自分としては新たな発見があったので、今回は以下にそれを掘り下げてみる。

 

「おにぎり」を社畜に重ね合わせる人たちが想定している問題点

  1. 見返りのない労働である
  2. 体を壊したり精神的に消耗して将来を棒に振る可能性がある
  3. 1人の生徒ががんばっておにぎりを握ることによって、他の生徒も同じことを求められる危険性がある

ブラック企業の話題で、雇用者側ではなくいわゆる「社畜」と呼ばれる従業員側が批判されることがあるけど、その場合批判内容は主に上記の3つだと思う。そして今回はこれらを「おにぎり」に重ねあわせて否定的に感じているのだろうと想像した。以下にそれらを1つづつ検証してみようと思う。

 

1.本当に見返りのない労働であったか

については、これは本人の意思によるところが大きいと思う。もしその行為(この場合はおにぎりを握ること)自体に楽しさを覚えているなら、もうそれだけで楽しみを得てる、つまり得るものがあると思っていいのではないかと思う。そして彼女の場合、将来の夢が保育士さんらしいので、この「誰かの世話をするという行為」の中に、経験として得るものがあったかも知れない。決してOA入試云々の話ではないし、もちろん彼女にそんな計算もないはずである。

ただ、これが誰かに強いられてイヤイヤやってたのであれば話は全く違ってくる。この件を否定的に考える人たちの言う通り、消耗するのみの犠牲的行為である、つまり見返りのない労働であると思われる。

 

2.体を壊したり精神的に消耗して将来を棒に振る可能性

については、必ずしもそうではないと思う。例えば、いわゆるフロー状態に入っている場合なら、ストレスや消耗どころかその経験を活力や将来の糧にしている可能性もある。また、人の資質は人それぞれなので、多くの人が疲れてしまうような活動量でも、ものすごい処理能力で対処できてしまう人もいるので一概に「これだけ働いたら体を壊す、消耗する」とは言えないはずである。

 

3.1人が頑張れば周りの人間のハードルも上がってしまう

という問題については、これは実際その可能性はあると思う。ぶっちゃけ迷惑に思う人間が周りにいてもそれも必然のように思う。

ただだからと言って自発的に頑張りたいと思っている個人が周りを気遣って自分の行動を制約する必要があるかどうかについては否だと思う。じゃあどうするのか。これは戦うしかないのだと思う。

「自発的に頑張りたい人」と「ハードル上げられると困る人」のどちらが正でどちらが悪ということはない。どちらも自分の立場をかけて戦うのである。


具体的には、ハードルを上げられると困る人は、「そんなに頑張る必要ないよ」ということを相手に吹き込む。またはその本人以外の周りの人間にそうささやいて、「がんばること」に否定的な空気を作りこむ。これが「ハードルを上げられると困る人」の戦術ではないかと思う。

では一方の「自発的に頑張りたい人」はどう戦うか。

これはひとえに「空気を読まない」。これに限ると思う。

空気を読まないと言えば聞こえが悪いけど、自発的に頑張りたい意欲が内から湧き上がってる人にとって、空気はまさに空気以外の何物でもなく、つまり勢いで吹っ切るもの以外の何物でもないのである。戦いが挑まれていることすら気づいていない可能性のほうが大きい。

ただ、内から湧き上がるものの力が弱い場合は周りの空気が読めてしまいこの戦いに負けてしまう可能性も大きいと思われる。

 

そしてこれを大人たちのネット上の社畜議論にフィードバックしてみる

と、見返りのない労働や消耗することを懸念する正論の影に、「ハードル上げられると困る人」たちの戦いが見え隠れするのである。この戦いにおいて、社畜は働いていてソーシャルなんて見てないので、「ハードルを上げられると困る人」は、社畜以外の一般の人を相手に「そんなに頑張る必要ないよ」という空気を形成することに励んでいると思われる。で、今回のおにぎり騒動も、その戦いの場に利用されたのではないか。


で、私はこの戦いがいけないとは思っていない。丁々発止お互いの尊厳をかけてやりあえば良いと思う。

一方には家庭や健康の事情で労働にリソースを避けない、または能力や体力の限界を自覚してしまっている、あるいは仕事内容が嫌いだけどお金のためだけにやっている等々、ハードルを上げられると困る正当な理由があるはずだから。もう一方は先に述べたとおり。


ただ、「がんばる必要ない」という空気が過剰に蔓延してしまうと、日本の経済活動に支障をきたすんじゃないかと思ったりする。

低賃金労働が過剰に行き過ぎると経済にダメージを及ぼすように、「がんばる必要ない」という空気が過剰に蔓延するとそのまんまの理屈でGDPが下がってしまうんじゃないかと。そして一企業においても一部の能動的な人材がその他の人材も含めた企業活動の存続を支えていたりするので、あまり「がんばる必要ない」が蔓延し過ぎると「ハードル上げられると困る人」にとっても死活問題かも知れない。

 

結局何が言いたかったか

それは、

「身を削ったり無理は良くないけど、楽しくがんばることは悪いことではない」

ということ。

 

ブラック企業の反動で、どうもがんばること自体が悪いことだと勘違いしてしまいそうな空気があるけど、自分が楽しくがんばれるなら、世の中に何か還元できる可能性もあるし、自分の将来の糧になるかも知れない。過剰やアンバランスでない限り、がんばるのは悪いことじゃないはずである。

 

ということで、空気読まずに楽しくがんばる(がんばるという言葉が気に入らなければ適当な言葉に置き換えていただいて)人が増えるといいな彼女のように、という思いと、楽しく働いていてソーシャル上で反撃する機会のない社畜の援護射撃のつもりでこれを書いてみる。

 

途中から酔っ払って書いてるので、何の論拠もないことを断定的に勢いだけで書いてしまったけどたぶんこれで合ってるんじゃないかと思う。